青森 幕末維新史跡観光

弘前藩と南部藩を軸に確執を抱えたまま幕末から戊辰戦争、明治維新へと進んでいく。
戊辰戦争の戦後処理により会津藩が斗南藩として立藩される。
弘前藩 南部藩(盛岡藩) 斗南藩 八戸藩
1847年
3月21日 平館に異国船が寄港。8人が上陸し食料を要求。
1848年
3月21日 袰月沖に異国船5隻が出現。
1849年
10月30日 沿岸警備の為、参勤交代を免除される。
1853年
6月 藩政改革を行う。
1854年
4月28日 領内8か所に台場を建設。
1855年
3月 東蝦夷地の分割警備を命じられる。
4月 新渡戸傳、三本木の開拓を願い出る。
8月 新渡戸傳、三本木新田御用掛となる。
1857年
12月1日 大島高任が大橋に日本初の洋式高炉を建設。
1858年
4月3日 三厩海岸に砲台場を築造。
8月6日 西洋式歩騎砲の練兵を実施。
1859年
2月7日 津軽順承、隠居。津軽承昭が第12代藩主に就任。
5月4日 新渡戸傳、三本木原への上水に成功。
12月 岩鉄15,000貫を幕府に献上。
10月 東蝦夷地に領地を与えられる。
1861年
1月 弘前藩建造の青森丸の航海試験を行い、函館に安着。
1863年
大島高任、八角宗律等が盛岡に洋学校「日新堂」を創立。
1864年
7月28日 京都警備の為、藩士を派遣。
1865年
1月15日 津軽承昭、御所南門の警備を受命。
9月24日 購入したゲーベル銃を弘前に送致。
藩校明義館を発展解消し作人館を創立。
1867年
10月20日 津軽承昭に上洛の朝命が下る。
11月3日 家老の杉山八兵衛が名代として上洛。
雫石代官所領内に作人館学田3000石を設置。
1868年
1月4日 西軍より会津討伐を命じられる。
閏4月11日 奥羽諸藩連名で会津藩降伏謝罪嘆願書を奥羽鎮撫総督に提出。
閏4月29日 奥羽越列藩同盟に加盟。
5月3日 奥羽越列藩同盟に加盟。
6月3日 九条奥羽鎮撫総督一行が盛岡に来る。8000両の軍資金を供出。
7月8日 藩論が勤王と決定する。
7月13日 奥羽越列藩同盟脱退を藩内に通知。
7月15日 西軍から庄内征討の命により出兵。
7月27日 鹿角口より秋田に進攻を開始。
9月10日 西軍の春陽丸から野辺地へ艦砲射撃を受ける。
9月22日 官軍に降伏。
9月23日 野辺地戦争。黒石藩兵と共に南部藩野辺地に進攻するが敗戦。 野辺地戦争。弘前藩、黒石藩により野辺地へ進攻を受けるが撃退。 野辺地戦争。弘前藩、黒石藩が南部藩野辺地へ進攻。南部藩兵と共闘し撃退。
10月14日 奥羽鎮撫総督府より沢宣種が入城し敗戦処置を行う。
11月5日 津軽承昭、奥羽触頭を命じられる。
11月11日 監察使が入城し、南部利恭と南部利剛の東京への護送。楢山佐渡、江幡五郎、佐々木直作を捕縛などの処分を決定する。
11月14日 鎮撫行政司庁の管理下に置かれる。
12月7日 領地を没収される。
12月17日 磐城白石13万石に減転封となる。
1869年
1月15日 会計官権判事 林友幸が着任。領地引き渡しの準備を始める。
3月4日 藩主 南部利恭、版籍奉還を願い出る。
4月 函館戦争が起こり、青森港が軍事基地となる。
6月17日 版籍奉還。津軽承昭、藩知事となる。 版籍奉還。南部利恭、白石藩知事となる。
6月21日 家老 楢山佐渡、戊辰戦争の責任を取り刎首となる。
6月22日 版籍奉還。南部信順、八戸藩知事となる。
7月22日 南部利恭、70万両の献金を条件に盛岡復帰を許される。
8月10日 南部利恭、盛岡藩知事となる。
10月8日 東政図が大参事、野田親孝が権大参事に任命される。
11月3日 斗南藩が立藩。
1870年
4月20日 三戸代官所で藩領を引継ぐ。
5月14日 70万両の献金を免除される。
5月15日 南部利恭、盛岡藩知事の辞任を請い,県制施行を建白。
7月10日 盛岡藩を廃し、盛岡県となる。
7月12日 東政図と野田親孝が盛岡県大参事に任命される。
7月23日 職務の等級、月給並びに覚料が制定される。
8月 田名部迎町 大黒屋立花文左衛門宅を借用し日新館を開校。
9月15日 朝廷御沙汰により職制を一部改正。
閏10月5日 藩校作人館を県立学校と改称。
1871年
2月15日 松平容大、五戸の三浦家を出立。
2月18日 松平容大、田名部の円通寺に到着。
日新館を円通寺に移転。
2月29日 弘前藩に窮状を訴え援助を文書を送付。
3月7日 弘前藩が千両と鍬千挺、鋤千艇を送付。
3月12日 山川浩が弘前藩を訪問し、援助の感謝を伝える。
6月14日 松平容大、佐井本陣能登屋に逗留。
6月 救貧所規則を制定。
7月14日 廃藩置県。弘前県となる。 廃藩置県。一関藩と八戸藩を分離。 廃藩置県。斗南県となる。 廃藩置県。八戸県となる。
7月20日 松平容保、田名部に到着。
8月25日 松平容保、容大、喜徳の一行が円通寺を出立し上京。
9月23日 青森県と改称。県庁を青森に移す。
11月2日 島惟精が盛岡藩参事、野田親孝が盛岡県権参事に任命される。
1872年
1月8日 盛岡県を岩手県と改称。
2月22日 第9代(最後の)藩主 南部信順、死去。