碇ヶ関関所之跡

碇ヶ関の関所は天生14年(1586年)津軽藩祖為信公によって作られた。
津軽統一誌に「矢立の杉と云う大切所を切通し境の此方に高陽の地あり関所を建て警固す今の碇ヶ関是なり」と誌されている。
この地は秋田盛岡への分岐点でもあり寛文2年(1662年)より藩主が江戸へ参勤する往復街道ともなり御仮屋を建て参勤の際には一泊の上旅装に変える所でもあったので関所は厳重を極めた。
幕府の巡検使の随行者であった古川古松軒の東遊雑記に「武器を飾り厳重なること中々箱根の御番所などの及ぶことにあらず」と記している。
実際碇ヶ関の関所の正門は城郭に用いる高麗門を建て警固し、そのうえ奉行所を置いた。矢立峠から湯ノ沢番所、折橋番所と要所に番所を置き最後に碇ヶ関の関所へたどり着くようになっていた。
津軽三関所(大間越、野内、碇ヶ関)であるがその中で往来の一番多いのも碇ヶ関の関所であった。【現地案内板より】

住所 青森県平川市碇ヶ関145 周辺
地図
碇ヶ関関所之跡 碇ヶ関関所之跡 案内
碇ヶ関関所之跡