戸田忠太夫

戸田忠太夫・・・水戸藩家老。
諱は忠敞。文化10年(1813年)家督相続し小普請組となり、文政3年(1820年)に大番組頭、文政11年(1828年)に目付となる。
文政12年(1829年)水戸藩主継嗣問題が起こり徳川斉昭を擁立する為に尽力し、斉昭が水戸藩主になると藤田東湖と共に補佐する。
天保6年(1835年)4月に旗奉行上座用人見習となり、その後は御側用人、和歌年寄代、馬廻組頭上座、水戸藩若年寄と要職に着き藩政改革を進めていく。
弘化元年(1844年)徳川斉昭が幕府より隠居謹慎処分となると戸田忠太夫も蟄居謹慎となる。
嘉永6年(1853年)徳川斉昭が幕府の海防参与となり、戸田忠太夫も幕府海岸防禦御用掛として江戸詰となり執政待遇となる。
安政元年(1854年)1月に大寄合頭上座用達となり弘道館造営、海防、領内検地など藩政改革を進めていく。
安政2年(1855年)10月2日、水戸藩江戸藩邸で安政の大地震に被災し圧死した。
文化元年(1804年)誕生。安政2年(1855年)10月2日死去。

住所 茨城県水戸市酒門町330(酒門共有墓地)
地図
戸田忠太夫(2012年1月) 戸田忠太夫(2012年1月)