天誅倉

江戸時代末期の文久3年(1863年)尊王討幕を志した天誅組は前侍従中山忠光卿を擁立し、光明天皇大和行幸の先駆けをしようと江戸幕府の五條代官所を襲ったが敗北した。
その一員で水郡長雄をと党首とする8名は再挙を図るため十津川から紀州領の小又川まで逃れてきたが、里人から警備の堅固さを告げられ脱出の困難さを知り文久3年9月2日この地の警備隊に自首した。
彼らが京都に護送されるまでの間幽閉されたのが当地の百姓喜助の蔵である。当時を偲ばせるものとして水郡長雄が倉の柱に「皇国のためにぞつくす真心は神や知るらん知る人ぞ知る」と辞世の句を書いている。
この天誅組を幽閉した倉は昭和39年の大雨で倒壊したのち復元した物であるが幕末史を知る上で貴重な資料である。
【現地案内版より】

住所 和歌山県田辺市龍神村小又川27
地図
天誅倉 天誅倉
天誅倉 案内 天誅倉 内部
水郡長雄 辞世の歌 天誅倉 模型
辞世の句を書く水郡長雄 歌碑