福昌寺鹿児島市 商店街

島津久光

島津久光・・・薩摩藩12代藩主 島津忠義の後見役。薩摩藩11代藩主 島津斉彬の異母兄。
嘉永年間に薩摩藩10代藩主 島津斉興の後継ぎとして由羅の子で五男の島津久光を推す派と、正室 弥姫の子で長男の島津斉彬を推す派の対立による「お由羅騒動(高崎崩れ)」と呼ばれるお家騒動が起き、幕府の介入により島津斉彬が11代藩主となる。
安政5年(1858年)島津斉彬の死去により久光の長男であり、斉彬の養嗣子であった島津忠義が12代藩主に就任すると後見役となり藩政の実権を握る。
文久2年(1862年)公武合体運動推進のため藩兵を率いて上京。4月23日に京都 寺田屋に自藩の過激派が集結した説得を命じたが寺田屋事件が起こる。
同年7月に勅使である大原重徳と江戸へ向かい幕府の人事改革、制度改革を提案(文久の改革)し幕府に受け入れさせる。
同年8月21日に江戸を出発し京都経由で鹿児島へ向かう途中の生麦で外国人を殺傷する「生麦事件」を起こす。
文久3年(1863年)7月の生麦事件の報復としてイギリス艦隊と薩英戦争が起きる。
文久4年、朝廷からの上京要請に答えて10月に上京し、元治元年1月14日に参与に任命され参与会議を行うも意見の相違から3月には中止となる。
慶応3年(1867年)上京し松平春嶽、山内容堂、伊達宗城と四侯会議を開き長州藩処分や兵庫開港について会議し、会議結果を将軍 徳川慶喜と話し合うも妥協点が見つからず、久光の考えも公武合体から討幕へと変わっていく。
同年10月14日島津忠義及び島津久光に朝廷から討幕の密勅が下され、上京を命じられるが病気の為に辞退し島津忠義が藩兵を率いて上京。
明治維新後は新政府の方針が久光の考えていた物と違いすぎていたため西郷隆盛と大久保利通に不満を募らせる。
明治4年7月14日に廃藩置県が行われると抗議の為に一晩中花火を打ち上げた。
明治6年に新政府の要請によって上京し5月10日に麝香間祗候を命じられ、12月25日に内閣顧問に任命される。明治7年4月27日に左大臣に任命され、明治8年10月22日に左大臣を辞任。明治9年4月に鹿児島に戻り隠居する。
文化14年(1817年)10月24日誕生。明治20年12月6日死去。

住所 鹿児島県鹿児島市池之上町24(福昌寺)
    地図
島津久光 島津久光