釈迦文院
明治4年(1871年)2月30日に、この地で仇討ちがあり「日本最後の高野の仇討ち」とも「神谷の仇討ち」ともいわれている。
復讐劇の起こりは9年前の文久2年(1862年)の赤穂藩内の争いである。赤穂藩主・森家の家督争いが原因で赤穂藩老・執政の森主税と参政の村上真輔が尊王攘夷派の藩士、吉田、西川ら13人に暗殺された。
その後、藩内の勢力争いも絡んで村上一族が閉門追放され、遺児らはこのため仇討ちの決心を固めたと言われている。襲撃した吉田らは脱藩し長州藩に身を寄せていたが長州藩は吉田ら7名に赤穂藩への帰参を命じた。
赤穂藩は吉田、西川らの処置に困り高野山に登って歴代藩主の廟所と高野山釈迦文院の守り役を命じた。殺生禁断の高野山に入山させれば村上一族の復讐から逃れられると判断したといわれる。
村上一族は復讐の決意を固め仇討ち事件の当日朝、河根宿の本陣・中屋に泊り吉田、西川たちを待ち伏せした。そして村上方7名が吉田方7名を討ち本懐を遂げて直轄の五條県庁に自首した。
そして、この事件が直接の原因で明治6年2月に太政官布告によって「仇討ち禁止令」が出された。村上方の処罰は一審で全員死罪となったが最終的に「禁固10年」又は「准流10年」の判決となった。
【高野の仇討ち現場 案内版より】
住所 和歌山県伊都郡高野町高野山349
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