施無畏寺
菊池海荘と栖原角兵衛の碑が建てられている。
菊池海荘・・・和歌山藩士。豪商。
文化8年(1811年)江戸へ出て家業の砂糖問屋で働きながら剣術、槍術、漢詩などを学び、文政5年(1822年)父が亡くなると番頭に経営を任せ国許で古碧吟社に参加し文芸に興じる。
文政8年(1825年)和歌山藩に苗字帯刀を許され藩御用達となる。天保7年(1836年)天保の大飢饉以降は地域の窮民救済、開墾、海防、湊の修復、剣術道場の開設などに尽力。
嘉永3年(1850年)「海防建議」を藩に提出し認められ有田と日高2郡の文武総裁に任命され農兵組織にあたる。
明治2年(1869年)有田郡民政局副知局事に任命され教育、殖産、軍事調練などにあたり、辞任後は明治12年(1879年)東京に移住し、政府から招聘を受けるが固辞し詩作に興じる。
寛政11年(1799年)9月25日誕生。明治14年(1881年)1月16日死去。
栖原角兵衛・・・10代続いた豪商。場所請負人。
本性は北村。代々の当主が栖原角兵衛の名を襲名。1~3代目までは木材を中心に商売をしていたが、5代目が明和2年(1765年)松前藩に支店を開設し漁業、回船、交易を中心に商売をする。
6代目以降、蝦夷地の場所請負人となり商売を広げていく。9代目が安政2年(1855年)松前藩の沖ノ口収納取扱方に就任。
10代目が安政6年(1859年)函館奉行より両替商に指定され、文久2年(1862年)北蝦夷地と樺太奥地の支配を命じられる。
本店を函館に移し明治維新後は漁業、回船、鉱山経営などで北海道開発に尽くすが負債が増大し明治28年(1895年)に三井物産の支配下となる。
住所 和歌山県有田郡湯浅町栖原1465
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菊池海荘の碑 |
菊池海荘の碑 |
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栖原角兵衛顕彰碑 |
施無畏寺 案内 |
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施無畏寺 |
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