粉河寺

中門に和歌山藩10代藩主 徳川治宝の「風猛山」の扁額。

児玉仲児遺徳碑が建てられている。
児玉仲児・・・政治家。
紀伊国那賀郡中山村の大庄屋の長男として生まれる。幼少から高野山で修業をし、伊勢の土井塾で学び慶応義塾に進学する。
明治7年(1874年)大蔵省に入省するが後に辞職。明治9年(1876年)地租改正条例に異議を唱える建白書を和歌山県に提出し粉河騒動の主導者となり自由民権運動を展開していく。
明治10年(1877年)粉河に猛山学校をを設立し自由民権の授業を行う。
明治12年(1879年)和歌山県議会議員に当選して政治家となり議長や郡長などを務める。明治23年(1890年)衆議院議員に当選する。
嘉永2年(1849年)11月14日誕生。明治42年(1909年)1月24日死去。

冷泉為恭が文久2年(1862年)に潜伏していた寺。
冷泉為恭・・・絵師。
狩野永泰の三男として生まれ、嘉永3年(1850年)蔵人所衆 岡田出羽守の養子となる。後に自分で「冷泉」の苗字を称すが、岡田為恭の苗字も用いていく。
安政2年(1855年)御所へ出仕し「小御所北廂襖絵」を描く。安政7年(1860年)九条尚忠の特使として金刀比羅宮で作品を残す。
御所や公家の斡旋で描いていたが文久2年(1862年)京都所司代 酒井忠義と親交した事から幕府や佐幕派に情報を漏らしていると疑われ尊王攘夷派に狙われる。
同年8月に尊王攘夷派の追及が激しくなってきた為に京都西賀茂 神光院に隠れ、次に和歌山 粉河寺に9カ月間潜伏。
後に奈良丹波市 永久寺に隠れるが元治元年(1864年)5月5日丹波市郊外鍵屋辻で長州藩 大楽源太郎らに暗殺される。
文政6年(1823年)9月17日誕生。元治元年(1864年)5月5日死去。

住所 和歌山県紀の川市粉河2787
地図
児玉仲児遺徳碑 児玉仲児遺徳碑
粉河寺 本堂 本堂 案内
粉河寺 中門 中門 案内