「稲むらの火」広場

「稲むらの火」の場面を再現して濱口梧陵の偉業を讃えている。

濱口梧陵・・・実業家。政治家。
分家 濱口七右衛門の長男として生まれ、天保2年(1831年)12歳の時に本家 濱口儀兵衛の養子となり銚子へ赴く。
嘉永5年(1852年)私塾耐久社を広村に開設。嘉永6年(1853年)七代目 儀兵衛を襲名。
安政元年(1854年)11月5日の安政南海地震津浪の際には村人の救済に奔走し「稲むらの火」として伝えられ、被災後は私財を投じて堤防建築や村の復旧に尽力する。
蘭医学にも支援を行い、関寛斎を支援し江戸や長崎留学の費用。安政6年(1859年)火事で焼失した西洋種痘所の建設費。文久2年(1862年)には司馬凌海の「七新薬」の出版費用などを援助する。
慶応4年(1868年)和歌山藩の勘定奉行に任命され、後に民生局長、権大参事などを歴任。明治4年(1871年)政府の駅逓頭に就任。明治13年(1880年)和歌山県会議長に就任。
明治18年(1885年)海外旅行先のニューヨークで客死。
文政3年(1820年)6月15日誕生。明治18年(1885年)4月21日死去。

住所 和歌山県有田郡広川町広1500(広川町役場)
地図
濱口梧陵の銅像 濱口梧陵の銅像
「稲むらの火」広場 案内