極楽寺

石田冷雲を顕彰した至誠院冷雲碑が建てられている。

栖原極楽寺の第13世の住職である。少年期に野呂松盧の槃澗塾に入って漢籍を5年間学ぶ。松盧が大志を抱いて京都に去った後、冷雲も又京都に出て本願寺の学林にいり宗典を研究する。
後帰って極楽寺に私塾を開いて郷土の弟子を教導した。塾は初め就正塾と言ったが明治になって敬業社と改称した。有田郡の青少年は無論のこと、他郡からも栖原に遊学する者も少なくなかった。
後年、開港攘夷両論の騒がしかった幕末には、京都に出て浪人横行の巷に梅田雲浜、横井小楠、佐久間象山らの志士と交わりを結び、
朝廷要路の公卿を歴訪して海防について建策した事を考え合わすと、冷雲は僧服でカモフラージュされた憂国の志士であったとも考えられる。
冷雲は菊池海荘と共に、京都で国事に奔走している間に御所に参殿を許された事もあったという。
詩人として冷雲は梁川星巌、仁科白谷、中島棕隠、広瀬旭荘らと交わった。明治2年本願寺に召されて教授についたが明治18年執務中に急逝した。
【現地案内版より】

住所 和歌山県有田郡湯浅町栖原797
地図
至誠院冷雲碑 石田冷雲 案内
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