徳川慶喜像
徳川慶喜・・・一橋家9代当主。第15代征夷大将軍。
徳川斉昭の七男。幼名は七郎麻呂。生後7か月で江戸から水戸に移り会沢正志斎らに学問と武術を教授された。
弘化4年(1847年)9月1日に一橋家を相続し同年12月1日に元服して慶喜と名乗る。
安政2年(1856年)12月3日、一条忠香の養女・美賀と結婚。
将軍継嗣問題で実父 徳川斉昭が一橋慶喜を擁立して、徳川慶福を推す井伊直弼らと対立し敗れる。
安政6年(1859年)8月27日、安政の大獄において隠居謹慎処分を受け万延元年(1860年)9月4日、隠居謹慎処分が解除される。
文久2年(1862年)7月6日、一橋家を再相続し同日に将軍後見職に就任する。
文久3年(1863年)12月、朝議参預就任し、元治元年(1864年)3月9日に、朝議参預を辞任。
同年3月25日、将軍後見職を辞任し同日に禁裏御守衛総督となる。
慶応2年(1866年)8月20日、徳川宗家相続。同年12月5日、15代征夷大将軍に就任。
慶応3年(1867年)10月14日、大政奉還し同年12月9日に征夷大将軍を辞職。
慶応4年(1868年)1月3日、鳥羽伏見の戦いが勃発し同年1月6日に大阪城を脱出し江戸へ向かう。
同年2月12日、恭順の意を示し 寛永寺で謹慎し4月15日から水戸 弘道館で謹慎する。
慶応4年(1868年)7月19日、駿河に移り宝台院で謹慎し明治2年(1869年)9月28日に謹慎処分が解除され10月5日に元代官屋敷に移り住む。
明治30年(1897年)11月19日、東京 巣鴨に移住し明治31年(1898年)3月2日、明治天皇に謁見する。
明治35年(1902年)6月3日、公爵となり貴族院議員に就任。明治43年(1910年)12月8日、慶久に家督を譲り貴族院議員を辞任して隠居する。
天保8年(1837年)9月29日誕生。大正2年(1913年)11月22日死去。
住所 茨城県水戸市南町3丁目5−1