山田合戦の跡
慶応四年八月五日、庄内藩と西軍が激戦を繰り広げた地。
合戦跡には山田合戦之跡、成田求馬忠魂碑、官軍矢嶋口戦死、文學院教誉玉仙居士(の墓 又は 碑)が建てられている。
慶応四(戊辰)年、秋田佐竹の藩論がはっきり倒幕勤王と決まると、庄内藩はいち早く酒井兵部の軍勢を藩境の三崎口に進め、内密に水野勝弥の軍勢に鳥海山を越えさせ、百宅口から矢島攻略の策をめぐらせた。
それに気付かぬ本荘・亀田・秋田の連合軍は仁賀保塩越に陣を張って対峙した。七月二十五日突如として庄内軍が百宅口から攻め込んできた。虚を突かれた矢島軍は三日と持ちこたえないで落城した。
この報に驚いた秋田勢は、津軽から応援に来ていた成田隊に秋田の槍隊を配して、急遽平沢から矢島口に回した。
その成田隊と庄内軍が衝突し、小競り合いをした玉坂口・上条・大台、それに最も切り合いの激しかった当時の山田村油畑での渡り合いにより連合軍が敗れた戦いを総称して「山田合戦」という。
慶応四年八月五日のことで、秋田藩六名、津軽藩六名の戦死者を出した。庄内藩は不明。遺体はここに埋葬したが、隊長成田求馬の首級だけは庄内軍の本陣となっていた矢島広祐寺まで運ばれた。
その後明治政府が確立した後、これら遺体は各藩に引き取られ、秋田市八橋の全良寺に移された。明治二八年官修墓地となる。
現地「山田合戦の跡」案内板より
住所 秋田県由利本荘市山本下野55 周辺
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山田合戦之跡 碑 |
成田求馬忠魂碑 |
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官軍矢嶋口戦死 碑 |
文學院教誉玉仙居士(の墓 又は 碑) |
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山田合戦の跡 案内板 |
山田合戦の跡 |
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