天保山砲台跡
洪水で川底に溜まった土砂の砂捨て場であったが天保年間(1830~1843年)に山のように盛り上がった為、天保山と名付けられた。
藩主 島津斉興は外国船に備えて嘉永3年(1850年)この地に砲台を築いていた。
文久2年(1862年)8月21日生麦事件が起こり、文久3年(1863年)7月2日~4日に薩英戦争が勃発。
天保山砲台から英艦隊旗艦ユーリアラス号に迎撃し艦長他9名戦死と損害を与えるも、イギリス軍のアームストロング砲によりわずか3時間で天保山砲台は壊滅した。
住所 鹿児島県鹿児島市天保山町24(天保山公園)
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天保山砲台跡 |
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天保山 案内 |
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天保山砲台跡 案内 |
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