玉造郷校跡

水戸藩の安政改革の一環として設けられた郷校(文武場)の一つで、藩内では最も遅い安政5年(1858年)に開館した。
当時の記録によれば出席者は見学者を含め39ケ村、313名で、身分や役職は郷士・神官 修験・郷医・村役人・農兵・猟師などで、その内、組頭と猟師が各々50名を越える。
研修内容は講釈と武術であるが、参加者は武術(特に砲術)が圧倒的に多い。
尊王攘夷運動が激しくなると、郷校は尊攘派有志の集会拠点となり、地元の者も多数加 わった。
元治元年(1864年)天狗党の争乱の際、玉造郷校は焼失した。開館から6年余である。
明治2年(1869年)に再建されたが、明治4年(1871年)廃藩置県により郷校としての教育活動は停止、翌年の学制公布を経て明治7年(1874年)旧校舎を使用して玉造小学校が開校された。
【現地案内版より】

住所 茨城県行方市玉造甲4563−4
地図
玉造郷校跡 玉造郷校跡 案内