高橋多一郎・庄左衛門

高橋多一郎・・・水戸藩士。
国友善菴や藤田東湖に学ぶ。天保10年(1839年)家督を継ぎ床几回組となり、天保12年(1841年)奥右筆となる。
天保15年(1844年)藩主 徳川斉昭が幕府から隠退謹慎処分を受け高橋多一郎は雪冤運動に奔走するが高橋多一郎も水戸藩より蟄居処分となる。
嘉永2年(1849年)徳川斉昭が許されると共に高橋多一郎も許され復職し、安政2年(1855年)北郡奉行。同年12月に奥右筆頭取となる。
安政5年(1858年)戊午の密勅問題では高橋多一郎が密勅の写しを江戸から水戸に届ける。
安政6年(1859年)徳川斉昭が幕府から永蟄居処分を受け、水戸藩に密勅返還が命じられると返納反対を唱え藩より蟄居処分となる。
同年、密勅が返還されるのを防ぐ為に急進派藩士を水戸街道長岡宿に集結させ、井伊直弼暗殺計画では薩摩藩士と合流する為に脱藩し長男 庄左衛門と大阪へ行く。
安政7年(1860年)3月3日、桜田門外の変を起こし井伊直弼暗殺に成功する。
高橋多一郎と庄左衛門は幕府に潜伏地を察知され大阪四天王寺で自刃する。
文化11年(1814年)誕生。万延元年(1860年)3月23日死去。

高橋庄左衛門・・・水戸藩士。
高橋多一郎の長男。茅根伊予之介に学ぶ。
安政6年(1859年)徳川斉昭が幕府から永蟄居処分を受けると父 高橋多一郎と共に徳川斉昭の雪冤運動に奔走する。
戌牛の密勅問題では各藩への回達を主張する。
井伊直弼暗殺計画では薩摩藩士と合流する為に脱藩し父 多一郎と大阪へ行く。
安政7年(1860年)3月3日、桜田門外の変を起こし井伊直弼暗殺に成功する。
高橋庄左衛門と多一郎は幕府に潜伏地を察知され大阪四天王寺で自刃する。
天保13年(1842年)誕生。万延元年(1860年)3月23日死去。

住所 茨城県水戸市松本町13−34
地図
高橋多一郎贈位記(2012年1月) 高橋多一郎墓碭銘(2012年1月)
高橋庄左衛門(2012年1月) 高橋庄左衛門 墓表(2012年1月)
高橋多一郎・庄左衛門(2012年1月)