田口俊平碑

江戸時代の末期、1862(文久2)年に幕府が軍艦開陽丸建造の際、オランダに派遣した蘭学者の一人に田口俊平がいます。俊平は白川町黒川の医師の三男に生まれ、付知の庄屋田口家の養子となりました。
長崎の練兵所で砲術を学び後に江戸へ出て、更に研究を進めました。33歳で西洋砲術の教授として招聘され、多くの門弟の指導に当たるとともに1859(安政6)年には咸臨丸の乗組員にもなっています。
この頃から幕末の志士、勝海舟や榎本武揚らと交流を持っています。俊平は1860(万延元)年の渡米使節には加わりませんでしたが、開陽丸建造の監督と測量術や西洋砲術を学ぶ為に
オランダへ留学生として派遣されました。ともに派遣された留学生には榎本武揚のほか日本の近代化に大きく貢献した内田恒次郎、沢太郎左衛門、赤松大三郎らがいます。
俊平はオランダで砲術など西洋の技術を更に深め1867(慶応三)年に開陽丸で帰国しました。帰国後は海軍操練所の教授となり、最新の西洋技術を持った先駆者として一層の活躍が期待されましたが
大政奉還の1カ月後、帰国して一年も経たない同年11月、病に倒れ亡くなってしまいました。(享年50歳)
しかし俊平のそれまでの日本近代化への功績が高く評価され昭和3年に従五位を追贈されています。
この石碑は第二次世界大戦時最後の総理大臣であった鈴木貫太郎が海軍大将時代に俊平を敬い建立したものです。
【現地案内板より】

住所 岐阜県中津川市付知町8544−4 周辺
地図
田口俊平翁碑 田口俊平翁碑
田口俊平 案内