島津斉彬公御陣屋跡
日本国中が「開国」か「攘夷」かで揺れ動いていた幕末の頃、島津家第28代当主 斉彬は開化君主の曽祖父 重豪の性格を受け継ぎ「西洋に学んで富国強兵の策を講ずべし」と武備開国を主張しました。
斉彬は軍備の充実を急務とし、集成館事業の中でも特に造兵事業に重点を置き、積極的に小銃や大砲を製造する一方、軍事訓練をも強化したのです。
この付近一帯は天保山調練城と称して、洋式砲術や騎兵、工兵などの訓練が行われた場所で、斉彬はここに陣屋を置き将兵を閲兵したり、訓練を指導したりしました。
1858年(安政5年)7月8日、国政を改革するため藩兵3,000名を率いての上洛を決意した斉彬は、天保山に城下の諸隊を集め合同大演習を行いました。
ところが真夏の炎天下、体調が悪いにもかかわらず終日訓練を強行したため、その夜から発熱、同月16日には、あっけなく他界してしまったのです。
「幕末第一等の英主」これは悪口で知られる勝海舟が斉彬を称した言葉です。
【現地案内板より】
住所 鹿児島県鹿児島市下荒田2丁目31−15(天保山中学校東側)
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島津斉彬公御陣屋跡碑 |
島津斉彬公御陣屋跡 案内 |
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島津斉彬公御陣屋跡 |
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