清凉寺

彦根藩15代藩主、幕府大老の井伊直弼が13歳の頃から曹洞禅の修養を始め21世 道鳴、22世 師虔、23世 仙英の3代の住職に学んだ。
井伊家の菩提寺であり井伊直弼が生前に付けた戒名「宗観院殿柳暁覚翁大居士」の位牌も安置されている。

長野主膳・・・彦根藩士。国学者。伊勢の出身とも伝わるも詳細は不明。天保10年(1839年)頃から本居宣長の研究を始め天保12年(1841年)彦根に転居し
        私塾高尚館を開校し国学を講じる。天保13年(1842年)井伊直弼が入門。
        嘉永3年(1850年)井伊直弼が藩主となり、長野主膳は藩校弘道館教授として20人扶持で召し抱えられる。
        この頃より井伊直弼のブレーンとして活躍を始める。井伊直弼が大老に就任すると公武合体論を推し進め朝廷との交渉や安政の大獄を取り仕切っていく。
        井伊直弼が桜田門外の変で暗殺後は彦根藩の藩論が変わり罪人として処刑された。
        文化12年(1815年)10月16日誕生。文久2年(1862年)8月27日斬首。
中村長平・・・商人。学問を好み長野主膳に学んで、門人となり長野主膳の政治活動を助けて国事に奔走する。
        長野主膳の死後は菩提を弔い、義言地蔵を建立し墓所も長野主膳の墓の隣に置く。
        明治以降は平田学派に転向し神道宣布に努める。
        天保7年(1836年)4月18日誕生。明治36年11月22日死去。
宇津木六之丞・・・彦根藩士。古沢六右衛門の4子として生まれ、宇津木三右衛門の養子となる。井伊直弼の信任を得て公用人となる。
           安政5年(1858年)の安政の大獄では長野主膳と共に国事に奔走する。井伊直弼が桜田門外の変で暗殺後は彦根藩の藩論が変わり罪人として処刑された。
           文化6年(1809年)誕生。文久2年(1862年)10月27日斬首。

住所 滋賀県彦根市古沢町1100
    地図
長野主膳 長野主膳の妻
長野主膳 中村長平
中村長平 右面 中村長平
長野主膳と中村長平の墓 宇津木六之丞
宇津木六之丞の碑 宇津木六之丞の碑 右面
宇津木六之丞の碑 裏面 宇津木六之丞の碑 左面
宇津木六之丞の墓と碑 清凉寺
清凉寺 清凉寺
清凉寺 案内