三光院

山岡鉄舟の碑が建てられている。

山岡鉄舟・・・幕臣。政治家。官僚。
幕臣 小野高福の子として江戸で生まれ、弘化2年(1845年)から嘉永5年(1852年)まで飛騨郡代となった父に従い飛騨高山で過ごす。
飛騨高山で書や北辰一刀流剣術を学ぶ。嘉永5年(1852年)父の死に伴い江戸へ帰る。
安政2年(1855年)講武所に入り剣術や、槍術を学んでいたが槍術の師 山岡静山の急逝により静山の妹 英子と結婚し山岡家に入る。
安政3年(1856年)講武所世話役となる。安政4年(1857年)清河八郎らと「虎尾の会」を結成。
文久3年(1863年)浪士組取締役として上洛。しかし、清川八郎らの動きを警戒した幕府により浪士組は江戸に戻され、残留した近藤勇らが新選組となっていく。
文久3年(1863年)4月13日に清川八郎が幕府により殺害された後は謹慎処分となり、剣術や禅の修行を行う。
慶応4年(1868年)の戊辰戦争では設立された精鋭隊歩兵頭格となる。同年3月9日、徳川慶喜の使者として駿府へ行き薩摩藩 西郷隆盛と談判し恭順の意を伝え江戸城無血開城の下地を作る。
同年3月13日と14日の勝海舟と西郷隆盛の会談に立ち合い江戸城無血開城を最終確定する。
明治維新後は徳川家達に従って駿府に行き静岡藩藩政補翼となる。明治4年(1871年)新政府に出仕して静岡県権大参事、茨城県参事、伊万里県権令を歴任。
明治5年(1872年)宮中に出仕し明治天皇の侍従となる。明治15年(1882年)宮中を致仕。
天保7年(1836年)6月10日誕生。明治21年(1888年)7月19日死去。

住所 東京都小金井市本町3丁目1−36
地図
山岡鉄舟先生之碑 鉄舟山岡先生之碑
山岡鉄舟の碑 三光院