蓮華寺
椋原義彦(朝比奈茂吉)・・・郡上藩士。凌霜隊隊長。政治家。郡上藩家老 朝比奈藤兵衛の長男。
戊辰戦争の際に佐幕派であった父
朝比奈藤兵衛の命により脱藩し凌霜隊隊長として小山、宇都宮、会津戦争を戦う。
会津藩の落城とともに官軍に恭順。郡上藩に送還後は入獄、謹慎となり明治3年2月19日に赦免となる。
家督を弟に譲り父の実家である彦根藩の椋原家へ養子に入り椋原義彦と改名する。明治22年に青波村村長となり在任中の明治27年に死去。
嘉永5年(1852年)誕生。明治27年死去。
石黒伝右衛門・・・彦根藩士。政治家。父の死去により生後7ヵ月で家督を相続。文久2年(1862年)内目付に就任。横浜、堺、伏見の警備にあたる。慶応2年(1866年)に第二次長州征討に従軍。
慶応3年(1867年)藩論が朝旨奉戴と決定した際には彦根藩家老 岡本半介と共に徳川慶喜の新政府参加を主張するが無条件遵奉派に敗れた。
慶応3年(1867年)11月15日に起こった坂本龍馬、中岡慎太郎暗殺事件(近江屋事件)の翌日に会津藩公用人 手代木直右衛門から石黒伝右衛門宛の
(簡単に要約すると)「至急に相談したい事件があるので、会いに来てほしい」という内容の手紙が発見されている。
戊辰戦争では東山道鎮撫総督 岩倉具定の指揮下で関東、奥羽、会津を転戦。
維新後は彦根藩議行局二等執事兼議長、権少参事、権大参事を歴任し、
廃藩置県後に彦根県権大参事、長浜県権大参事、額田県権参事、浜松県権参事、静岡県参事、内務少書記官、福井県令などを歴任。
天保11年(1841年)誕生。明治以39年3月17日死去。
西村捨三・・・彦根藩士。政治家。長野主膳に推薦され江戸に留学。江戸で塩谷宕陰に学び、帰国後は藩校弘道館の教授となる。戊辰戦争では東征大総督 有栖川宮熾仁親王の参謀として従軍。
維新後は彦根藩権大参事、島根県参事などを歴任し、明治5年に藩主井伊直憲に随行し欧米渡航。
帰国後は内務省警保局長、沖縄県令、土木局長、大阪府知事、農商務次官、北海道炭鉱鉄道社長、大阪築港事務所長などを歴任。
天保14年(1843年)7月誕生。明治41年1月14日死去。
住所 滋賀県彦根市中央町3−64
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椋原義彦(朝比奈茂吉) |
椋原義彦(朝比奈茂吉) |
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石黒伝右衛門 |
石黒伝右衛門 左面 |
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石黒伝右衛門 右面 |
石黒伝右衛門 裏面 |
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西村捨三 |
西村捨三 裏面 |
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西村捨三 |
蓮華寺 |
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