霊巌寺
三宅康直・・・田原藩11代藩主。
文政10年(1827年)7月10日、10代藩主 三宅康明が嗣子なく病死。藩財政が困窮していた田原藩は持参金で藩財政を救う為に姫路藩主 酒井忠実の六男 康直を11代藩主として迎え入れた。
文政11~12年(1828~1829年)田原城下の大火、続いて 天保元年(1830年)日光祭礼奉行を務めたことで財政はさらに悪化。天保3年(1832年)渡辺崋山をを年寄役に登用し改革を開始。
天保12年(1841年)幕府奏者番に就任。天保14年(1843年)波瀬村に台場を築き海防強化。嘉永3年(1850年)軍制を西洋式に改める。同年11月11日に隠居。
三宅家に入る前に交わした約束通りに康保を12代藩主に指名する。
文化8年(1811年)7月24日誕生。明治26年(1893年)8月9日死去。
三宅康保・・・田原藩12代藩主。
三宅友信の長男として誕生。渡辺崋山や真木定前の尽力により次期藩主の地位を約束されており嘉永3年(1850年)11月11日に12代藩主に就任。
嘉永6年(1853年) と文久2年(1862年)に大坂城在番を務める。
明治2年(1869年)6月、田原藩知事に就任。明治4年(1871年)7月、廃藩置県により藩知事を免職。明治16年(1883年)3月24日に隠居し家督を長男 三宅康寧に継承。
天保2年(1831年)2月1日誕生。明治28年(1895年)1月23日死去。
真木定前・・・田原藩重臣。
生田弥左衛門の次男として生まれ、真木十郎兵衛忠辰の養子となる。天保6年(1835年)天保の大飢饉では家老 渡辺崋山の代りに指揮を執り餓死者を一人も出さずに乗り切る。
11代藩主三宅康直が就任する際の後継者問題で誓約した三宅家に世継を返す件が反故されそうになり、参勤交代から帰る途中の金谷宿で藩主 三宅康直への上書を認めて切腹した。
寛政9年(1797年)誕生。弘化元年(1844年)9月10日死去。
首なし地蔵様
三宅友信の三男で12代藩主 三宅康保の弟である三宅貞三郎が侍女の於阿佐と恋仲となり、不謹慎との事で貞三郎は元治元年(1864年)12月1日に切腹となる。
於阿佐も自害を迫られ叔父 赤井覚右衛門に首を刎ねられた。哀れに思った人が供養に二人の地蔵様を並べて建てたが首が落ちてしまった。何度付け直しても落ちる事から首なし地蔵様と呼ばれる。
住所 愛知県田原市田原町北番場3
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三宅康直 |
三宅康保 |
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| 田原藩主墓所 |
田原藩主墓所 案内 |
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| 真木定前 |
真木定前 案内 |
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| 首なし地蔵様 |
首なし地蔵様 |
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| 純愛地蔵さま(首なし地蔵様)案内 |
霊巌寺 |
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