乃木静子誕生地

1859年(安政6年)薩摩藩医 湯地定之の四女(第七子)として生まれ、幼名は「お七(お志知)」、幼少時代をこの地で過ごしました。
20歳の時、乃木希典(後の陸軍大将)と結婚し、「静子」と改名。女学校時代から「湯地の娘が男なりせば」と嘆賞されるほどの才女で貞淑温順にして、きわめて質素、勤勉だったといわれます。
日露戦争で二人の息子を失った時も、大将の妻として御国の役に立てた事を喜ぶという立場から、悲しみを胸中深く閉じ込めて、涙を見せなかったほどの烈女でもありました。
乃木希典が世界的大人格者と言われるのは、この静子の内助の功のおかげといっても過言ではありません。
1912年(大正元年)9月13日、明治天皇のあとを慕って乃木希典とともに自刃しました。
1919年(大正8年)静子夫人の銅像が建立されましたが太平洋戦争末期、銅像は軍事資材として供出され台座のみが残されました。
2012年(平成24年)に「静子夫人没後百年顕彰祭」が行われたのを機に復元の声が高まり、2016年(平成28年)残った台座の隣に新しい銅像が建立されました。
【現地案内板より】         

住所 鹿児島県鹿児島市新屋敷町4−17
    地図
かつての乃木静子銅像台座 乃木静子銅像
乃木静子銅像 乃木静子 案内
乃木静子誕生地