涙橋血戦の碑

旧谷山街道と新川が交わるこの地の下流に掛かっている橋は、江戸時代、橋の先の処刑場に向かう罪人と家族が、この橋のたもとで最後の別れをした事から涙橋と呼ばれるようになった。
この碑は明治10年(1877年)の西南の役で戦死した枕崎出身の90名の薩軍兵士を供養するため昭和2年(1927年)に建てられた。
熊本で敗れた薩軍の一部が鹿児島にたどり着いた時、鹿児島は殆ど官軍に占領されていた。
涙橋近くの高地では枕崎出身の今給黎久清以下213名の兵士が武之橋方面からと脇田方面から迫る官軍に応戦、旧式の兵器や弾薬の不足にもかかわらず奮戦し戦いは6時間にも及んだという。
結局、平田新左衛門ら90名の戦死者を出し柴原方面に退却したと伝えられている。
【現地案内板より】

住所 鹿児島県鹿児島市南郡元町1−1
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涙橋血戦の碑 涙橋血戦の碑
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涙橋