名越左源太屋敷跡
名越左源太・・・薩摩藩士。
弓奉行や御軍役方掛物頭を務めていたが、嘉永3年(1850年)お由良騒動の密会場所を提供して計画に加わった事により奄美大島へ流罪となる。
嘉永3年(1850年)3月27日の出航から記録を書き留め、当時の奄美大島の年中行事、言語、民俗学、生活習慣や生物学などが詳細に記された「遠島日記」「南島雑話」を著した。
奄美大島では島民に学問を教えたり、島中絵図書調方に任命されて奄美大島の実情を調べるなどしていた。
安政2年(1855年)6月21日、罪を許され鹿児島へ帰還。小林地頭、高岡地頭を務め慶応3年に寺社奉行に就任。
明治6年に宮崎県12大区区長に就任。翌年の明治7年に辞任した。
文政2年(1819年)誕生。明治14年6月16日死去。
住所 鹿児島県鹿児島市皷川町28−5 周辺
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名越左源太屋敷跡 |
名越左源太 案内 |
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