寺田屋お登勢実家升屋跡

お登勢は大津の公事宿「舛屋」を経営していた山本重助の次女で伏見の船宿「寺田屋」六代目寺田屋伊助の妻となった。
以後、寺田屋はお登勢が切り盛りして多くの幕末志士の面倒をみた。
元治元年8月1日(1864年9月1日)京都の青蓮院塔頭「金蔵寺」でお龍と内祝言をあげた坂本龍馬は寺田屋お登勢にお龍を託す(お龍の回想録「反魂香」)。
慶応2年1月23日(1866年3月9日)深夜、龍馬は寺田屋で伏見奉行所捕方の奇襲を受け手傷を負いながらも逃げのびて、以後お龍と行動を共にする。
この間約1年半、お龍はお登勢のもとで暮らしていた。そのお登勢の実家「舛屋」がこの地にあった。丸屋町宗門人別改張からお登勢とその家族が確認できる。
「舛屋」はのちに兄が家督を継ぎ、町年寄まで務めた。土地台帳から明治24年(1891)まで存在したことが解る。お登勢の両親の墓は九品寺(大津市京町1-2-1)に現存する。
【現地案内板より】

住所 滋賀県大津市中央1丁目4−19
    地図
寺田屋お登勢実家升屋跡 寺田屋お登勢実家升屋跡
寺田屋お登勢実家升屋跡 案内 寺田屋お登勢
九品寺への地図