間宮林蔵記念館
間宮林蔵の生家が50メートル先から移築されている。
間宮林蔵・・・徳川幕府御庭番。探検家。
農家の子として生まれる。生家の近くで岡堰の普請工事に加わっていた際に幕臣 村上島之丞に才能を見込まれ幕府の下役人となる。
寛政11年(1799年)国後島、択捉島、得撫島に派遣され同地に来ていた伊能忠敬に測量技術を学ぶ。
享和3年(1803年)西蝦夷地を測量しウルップ島までの地図を作製。
文化4年(1807年)紗那会所元に勤務していた時にロシア軍に攻め込まれ、間宮林蔵は徹底抗戦を主張するも受け入れられず日本側は撤退する。
文化5年(1808年)樺太探索の命を受け文化6年(1809年)6月まで探索し樺太は島である推測をたて報告書を提出し、
再調査を願い出て再度樺太調査に向い9月までの間に樺太が島である事を確認し、ロシア本土のアムール川下流も調査する。
文化8年(1811年)江戸へ行き、蝦夷地、樺太探索の地図と報告書を幕府に提出した。江戸滞在中に伊能忠敬に師事して測量技能の向上に努める。
同年4月、松前奉行支配調役下役格に就任し12月に松前に派遣されゴローニン事件の調査を行う。
文政5年(1822年)普請役に就任。文政11年(1828年)勘定奉行 村垣定行の部下となり隠密として諸藩の調査を行う。
海防策や知識の豊富さが評価され水戸藩主 徳川斉昭や水戸藩士 藤田東湖、幕臣 川路聖謨や江川英龍らとも交流を持った。
誕生年は諸説あり。天保15年(1844年)2月26日死去。
住所 茨城県つくばみらい市上平柳64