町田久成家の墓
町田氏は島津家2代当主忠時の7男 常陸介忠経を始まりとし,地頭や家老を輩出する名門支族である。
家格は御一門につぐ領地を持てる一所持、石高は1700余石、屋敷は今の千石町に7000㎡余の屋敷を持っていた。
墓は町田家22代久東視から28代久長(薩摩藩英国留学生を率いて渡英した久成の父)が主体で、
ほかに石谷城の合戦で戦死した15代梅久の墓、17代久徳の墓、久視による改葬碑、菩提寺である永福寺の僧侶墓などがある。
墓標は仏式の五輪塔を中心に石祠型がたであるが、明治2年に死去した久長は神式による墓標である。
また久成の母の国子は吉利(現日置市日吉町)の小松家の娘で、妹のお近の夫が小松帯刀という縁で、
国子の燈籠には久長、久成などとともに清廉(帯刀)及び帯刀の妻の名なども並び刻銘されている。
【現地案内板より】
住所 鹿児島県鹿児島市石谷町3771−1(永福寺)