空印寺
酒井忠氏・・・小浜藩第13代藩主。旗本酒井忠欽の四男として生まれ、嘉永6年(1853年)5月7日に酒井忠義の養嗣子となる。
文久2年(1862年)閏8月1日、家督を継ぎ13代藩主に就任。鳥羽伏見の戦いで幕軍について戦い、敗走して山陰道鎮撫軍に遭遇し新政府軍に降伏。
新政府より致仕謹慎の処分を受け明治元年12月9日に隠居。
天保6年(1835年)1月14日生誕。明治9年1月21日死去。
酒井忠義・・・小浜藩第12、14代藩主。天保14年(1843年)11月3日から嘉永3年(1850年)7月28日、安政5年(1858年)6月26日から文久2年(1862年)6月30日の2度京都所司代を務める。
将軍継嗣問題では一橋派を弾圧し安政の大獄の発端を作ったといわれる。和宮降嫁にも奔走。文久2年(1862年)5月に名を忠禄と改める。
文久2年(1862年)11月20日に失政を問われ所司代を罷免され隠居謹慎となり酒井忠氏に家督を譲る。
明治元年12月9日には酒井忠氏が致仕謹慎となった為、14代藩主に再任する。
文化10年(1813年)生誕。明治6年12月5日死去。酒井家之墓に合葬。
武久権十郎・・・小浜藩士。安政2年(1855年)小浜町奉行に就任。安政5年(1858年)8月に小浜の町の7割を焼失する大火事があり、
町の中央部に消火と火除けを兼ねた堀川開削を藩重臣に提案したが財政圧迫の為に聞き入れられず、町の有力者に提案し万延元年 (1860年)に堀川を完成させる。
しかし藩命に背いたとして敦賀町奉行に左遷となる。
文政3年(1820年)4月12日生誕。明治8年11月10日死去。
住所 福井県小浜市小浜男山2
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酒井忠氏 |
酒井忠氏 裏面 |
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酒井家之墓 |
酒井家墓所 |
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武久権十郎 |
武久権十郎 裏面 |
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武久権十郎 |
空印寺 案内 |
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空印寺 |
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