興国寺墓地
長沢鼎 ・・・薩摩藩士。実業家。
本名は磯永彦輔。元治元年(1864年)薩摩藩洋学校 開成所で英語を学ぶ。慶応元年(1865年)薩摩藩第一次英国留学生に13歳で選ばれる。
鎖国体制の為に長沢鼎と変名してイギリスに留学し、スコットランドのアバディーンにある中学校で学ぶ。
慶応3年(1867年)アメリカに渡り、キリスト教団体「新生社」に入り信者と共同生活を始める。1871年にアメリカに永住する事を決断。
ワイン醸造を学びワイン造りを始める。1900年に解散状態にあった新生社からワイナリーを買い取ってワイナリー・ブドウ農園経営を始め、
カリフォルニア州の10大ワイナリーとなるまで成功し「ブドウ王」と呼ばれた。
安政元年(1854年)誕生。昭和9年3月1日死去。
染河彦兵衛 実秀・・・薩摩藩小銃第四隊として戊辰戦争に従軍。明治元年閏4月25日磐城白河の戦いで戦死。
大迫尚敏・・・薩摩藩士。陸軍軍人。
薩摩藩校 造士館で学び、文久3年(1863年)の薩英戦争では五番組として従軍。慶応4年(1868年)戊辰戦争に従軍し、明治4年3月に陸軍に入隊。明治10年の西南戦争では陸軍として熊本籠城戦に順軍し熊本鎮台参謀を務める。日清日露戦争に出征し明治39年に陸軍大将となる。大正元年11月から学習院院長を大正6年まで務める。
弘化元年(1844年)誕生。昭和2年9月20日死去。
伊地知季通・・・薩摩藩士。歴史学者。
伊地知季安の二男。大口地頭や群奉行を務め、明治以降は鹿児島県庁歴史編修官として「旧記雑録」「旧記雑録追録」を編纂。
文政元年(1818年)誕生。昭和34年3月19日死去。
伊地知季安・・・薩摩藩士。
享和2年(1802年)から御作亊下目付、横目付を務めていたが、文化5年(1808年)近思録崩れに連座し喜界島に流刑となる。
文化8年(1811年)に許され鹿児島に帰還するも文化13年(1816年)まで自宅謹慎となる。
謹慎処分解除後も仕官する事は出来ず古文書の整理、収集や編纂の作業を行っていたが、天保14年(1843年)藩命により全ての著作を没収されてしまう。
没収された書物が藩の目に留まり弘化4年(1847年)御徒目付・軍役方掛として再仕官が叶い、軍賦役などを務め、
嘉永5年(1852年)記録奉行に任命され島津家の歴史の編纂に取り組み「旧記雑録」を二男の季通と親子2代で完成させる。
天明2年(1782年)4月11日誕生。慶応3年(1867年)8月3日死去。
川上八郎左衛門 親貞・・・薩摩藩大砲第四隊監軍として戊辰戦争に従軍。明治元年9月25日会津若松城下で戦死。
児玉天南・・・薩摩藩士。薩摩琵琶奏者。
諱は利純。薩摩琵琶の名手であり慶応2年(1866年)1月21日、京都の小松帯刀邸で薩長同盟締結の際には、名目上は薩摩琵琶会として集まり児玉天南が琵琶を演奏した。
維新後は陸軍少尉となるが西郷隆盛の下野に従い辞任。明治10年の西南戦争に従軍し田原坂の戦いで負傷する。
弘化3年(1846年)9月27日誕生。大正6年2月1日死去。
新納久仰・・・薩摩藩家老。
新納駿河とも。晩年は葦洲と称す。畠山義矩の二男で新納久命の跡を継ぐ。琉球付役、異国船掛、兵具方掛、寺社奉行、大番頭、勘定奉行などを歴任。
嘉永4年(1851年)28代藩主 島津斉彬によって家老に取り立てられ富国強兵・殖産興業政策などを補佐。
斉彬の死後は藩政を後見した前藩主 島津斉興に重用され斉彬が創設した集成館などの事業を廃止・縮小した。
安政6年(1859年)斉興に代わり後見役となった島津久光に罷免された。
文化4年(1807年)10月3日誕生。明治6年6月3日死去。
高崎五郎右衛門・・・薩摩藩士。
船奉行を務めていたが、島津斉彬を藩主に就任させるため家老 島津久徳など、お由羅派の暗殺を画策した嫌疑を受け(お由良騒動。別名 高崎崩れ。嘉永朋党事件。)
嘉永2年(1850年)12月3日に切腹となる。
享和元年(1801年)誕生。嘉永2年(1850年)12月3日死去。
住所 鹿児島県鹿児島市冷水町3−26
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長沢鼎 |
長沢鼎 |
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長沢鼎 案内 |
染河彦兵衛 |
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染河彦兵衛 墓碑 |
染河彦兵衛 |
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大迫尚敏 |
大迫尚敏 |
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伊地知季通 |
伊地知季安 |
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伊地知季安 案内 |
伊地知家 |
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川上八郎左衛門 |
川上八郎左衛門 |
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児玉利澄 |
児玉利澄 |
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新納久仰 |
新納久仰 |
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高崎五郎右衛門 |
高崎五郎右衛門 |
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高崎五郎右衛門 入口 |
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