孝顕寺

小場兵馬が慶応4年(1868年)4月14日に自刃した寺で「小場兵馬自刃之處」碑が建てられている。
小場兵馬 利昌・・・結城藩家老。
幕末期に結城藩は藩論が佐幕派と恭順派に別れていた。国許にいた小場兵馬ら恭順派は結城城を守っていたが、
江戸で彰義隊の指揮を取っていた結城藩主 水野勝知が一部の彰義隊士を連れて慶応4年(1868年)3月26日に結城城を攻撃し占拠されてしまった。
同年4月、小場兵馬は新政府軍の力を借りて結城城を奪回したが、小場兵馬は藩政混乱の責任を取って慶応4年(1868年)4月14日に自刃した。
文政元年(1818年)誕生。慶応4年(1868年)4月14日自刃。

水野勝知・・・結城藩10代藩主。
二本松藩9代藩主 丹羽長富の八男として生まれ、文久2年(1862年)11月24日に結城藩9代藩主 水野勝任が死去した為に末期養子として10代結城藩藩主となる。
慶応4年(1868年)幕府から彰義隊の指揮を任される。同年3月26日、国許が恭順派となっていた為に彰義隊の一部を連れて結城城を攻撃し占拠する。
翌4月に新政府軍に攻め落とされ隠居謹慎となる。
天保9年(1838年)2月26日誕生。大正8年(1919年)4月22日死去。

水野勝善・・・結城藩家老。
尊攘派として活動し元治元年(1864年)天狗党の乱では数名の藩士と筑波勢に加わり高道祖、下妻の戦いの後に筑波勢と別れる。
他藩士と横浜襲撃を企てるが幕府軍に追われ水海道鬼怒川で自刃する。
天保11年(1840年)誕生。元治元年(1864年)11月9日自刃。

小川鈴之・・・結城藩士。
結城藩7代藩主 水野勝愛の庶子として生まれる。学問を猪瀬豊城、剣術を桑田弥門に学び、後に江戸へ出て学ぶ。
帰国後、家老 小場兵馬や光岡多治見らと結城藩論を尊攘派に導き、慶応4年(1868年)3月26日に国許の藩士と共に10代藩主 水野勝知と戦う。
文政5年(1822年)8月3日誕生。明治26年(1893年)1月18日死去。

住所 茨城県結城市結城461
地図
小場兵馬自刃之處 水野勝知
水野勝善 水野勝善 右面
水野勝善 左面 水野勝善
小川鈴之 小川鈴之
孝顕寺 孝顕寺 山門
孝顕寺 案内