桐野利秋田蘆跡

明治6年、征韓論に敗れた西郷隆盛に従って薩摩に帰った桐野利秋は幼い頃から世話になっていた山下孫兵衛を頼って、この宇都谷に移り住んだ。
宇都谷では小屋に住んで、水田4反余、陸田(畑)5反余を開墾して日を過ごした。
明治7年2月に起こった佐賀の乱の落人 石井貞興が逃れて来た際には匿っている。

桐野利秋(中村半次郎)・・・薩摩藩士。陸軍軍人。
明治4年に中村半次郎から桐野利秋に改名。幕末は家老 小松帯刀に引き立てられ、西郷隆盛や大久保利通など薩摩藩の重心からも信頼を得て討幕に奔走する。
慶応4年(1868年)戊辰戦争では薩摩藩城下一番小隊隊長として上野戦争に参戦。上野戦争後に鈴木隼人らに襲われ左手中指と薬指を失い入院する。
同年8月21日、大総督府軍監として会津戦争まで転戦する。9月22日の会津城開城では軍監として受取役となる。
明治2年、鹿児島常備隊第一大隊隊長となり、明治4年に大隊を率いて東京に行き御親兵に編入し陸軍少将に任命。
明治5年に熊本鎮台司令長官、明治6年に陸軍裁判所所長を兼任するが10月に西郷隆盛の下野に従い鹿児島へ帰郷。
帰郷後は吉野の原野を開墾して過ごすが、明治10年の弾薬略奪事件と西郷隆盛暗殺計画により私学校幹部ら約200名の会議が行われ、
桐野利秋が決断し西南戦争に突入していく。
西南戦争では四番大隊指揮長となり薩摩軍の総指揮を取り九州各地を転戦するも敗戦が続き9月24日に鹿児島の城山攻防戦で戦死。
天保9年(1838年)12月誕生。明治10年9月24日死去。

住所 鹿児島県鹿児島市本城町2233 周辺
    地図
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