絹屋半兵衛屋敷
古着商人であった絹屋半兵衛が京都で見た焼物に興味を持ち伊万里から職人を呼び寄せ湖東焼を始めた。
湖東焼の創始者として功績をねぎらい井伊直弼は絹屋半兵衛に「伊藤」の性を与えた。
湖東焼は彦根藩14代藩主 井伊直亮の目に留まり天保13年(1842年)から彦根藩直営として生産し、井伊直弼が15代藩主に就任すると窯を拡大し生産規模を拡張した。
湖東焼は日本を代表する品質で他大名に贈答していた。しかし経営は上手くいかず嘉永5年(1852年)に豪商であった藤野四郎兵衛に経営を委託するも、
藤野四郎兵衛も2年間で1千両以上の損失を被り経営を辞退。安政7年(1860年)の桜田門外の変で井伊直弼が死去すると湖東焼も規模を縮小する。
明治28年には民間事業としても湖東焼は途絶えてしまった。
住所 滋賀県彦根市元町2−16
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絹屋半兵衛屋敷 |
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