吉祥寺

赤松大三郎 則良・・・幕臣、海軍軍人。幕府与力 吉沢政範の次男として生まれ、赤松良則の養子となる。韮山代官 江川英龍、蘭医師 坪井信良に入門して西洋式砲術、兵学、蘭学を学ぶ。
              安政4年(1857年)蕃書調所勤務として幕臣となる。長崎海軍伝習所に入り万延元年に咸臨丸の太平洋横断に参加。文久2年(1862年)幕命でオランダに留学。
              明治元年に沼津兵学校教授となり、明治3年に兵部省へ出仕。のち、海軍で海軍中将まで累進し、初代佐世保鎮守府司令長官などを歴任。
              天保12年(1841年)12月1日誕生。大正9年9月23日死去。
桃井可堂・・・儒学者、志士。22歳の時に東条一堂の塾に入門。のち庭瀬藩の儒臣となるが尊王攘夷を志し文久3年(1863年)に職を辞す。
        文久3年(1863年)12月に新田義貞の子孫である岩松俊純(新田満次郎)を擁して挙兵し横浜外国人居留地を襲撃しようと企てたが計画が漏れ川越藩に自首。
        江戸に護送され、麻布の福江藩邸に預けられたが絶食して死去。
        享和3年(1803年)8月8日誕生。元治元年(1864年)7月23日死去。享年62歳。
鳥山新三郎・・・儒学者。東條一堂の塾に入門して儒学を学ぶ。文化3年(1806年)日本橋桶町に私塾 蒼龍軒塾を開く。尊王攘夷論を唱え、吉田松陰らとも親交を持つ。
          嘉永7年(1854年)4月6日、吉田松陰の密出国事件に連座しているとの事から新発田藩邸に幽閉された。
          文政2年(1819年)2月2日誕生。安政3年(1856年)7月29日病死。
板倉勝静・・・備中松山藩7代藩主。幕府老中。奥羽越列藩同盟参謀。白河藩主 松平定永の8男として生まれ、板倉勝職の養子となる。
        嘉永2年(1849年)閏4月6日に家督を継ぎ、安政4年(1857年)寺社奉行となる。安政の大獄では井伊直弼の政策に反対して安政6年(1859年)に免職された。
        文久元年(1861年)再び寺社奉行となり、文久2年に老中となる。戊辰戦争では藩論は恭順だったが、板倉勝静は宇都宮の英厳寺に軟禁されていた所を旧幕府軍に助けだされ、
        奥羽越列藩同盟の参謀として抵抗を続け、函館まで参戦する。
        文政6年(1823年)1月4日誕生。明治22年4月6日死去。
鳥居耀蔵・・・幕臣。幕府儒官 林述斎の2男として生まれ、鳥居一学の養子となる。文政4年(1821年)11月家督を継ぎ文政6年(1823年)中奥番士、天保5年(1834年)徒頭。
        のち右大将殿付目付から目付となり、天保13年(1842年)江戸町奉行となる。
        天保の改革においては厳しく捜査をし陰険な手段を用いており、市民からは「蝮の耀蔵」や「妖怪(耀甲斐)」と言われ嫌われていた。
        天保15年(1844年)に失脚し丸亀藩預かりとなり25年間幽閉された。
        寛政8年(1796年)誕生。明治7年10月3日死去。

住所 東京都文京区本駒込3丁目19−17
地図
赤松則良 赤松則良
桃井可堂 桃井可堂
鳥山新三郎 鳥山新三郎
板倉勝静 板倉勝静 左面
板倉勝静 鳥居耀蔵
鳥居耀蔵 鳥居耀蔵