川上操六の墓

川上操六・・・薩摩藩士、陸軍軍人。
慶応4年(1868年)鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争に薩摩藩十番隊小頭として従軍。明治4年に御親兵大尉となる。
明治10年の西南戦争では陸軍少佐、熊本鎮台参謀として熊本城に籠城。第十三連隊長 与倉中佐の戦死後は連隊長心得として十三連隊を指揮し西郷軍と戦って戦功を立てる。
明治15年に歩兵大佐となり近衛歩兵第一連隊長に就任。明治17年に欧州視察。
明治20年に再度渡欧しドイツでドイツ式兵学を学ぶ。帰国後、陸軍兵制をドイツ式に改革し参謀本部の組織を確立させるなど陸軍の近代化を推し進める。
明治22年から明治32年に亡くなるまで、陸軍士官学校への全寮制予備校として創立された成城学校(現、成城中学校)の校長を務め優秀な軍人育成に貢献。
明治23年、陸軍中将に就任。明治26年、参謀本部次長に就任し、陸軍上席参謀兼兵站総監として日清戦争開戦を迎える。
明治31年、参謀総長に就任。同年に陸軍大将に就任。
嘉永元年(1848年)誕生。明治32年5月11日死去。

住所 東京都港区南青山2丁目32-2 青山霊園1種イ13-13
川上操六の墓 川上家墓所