慈眼寺
慶応4年(1868年)5月2日に河井継之助と岩村精一郎が慈眼寺で会談を行い、若輩の岩村は河井の説が理解できず会談は決断してしまった。
この決裂により長岡藩は北越戦争へと突入していく。
一番下の2枚は中越地震後の写真です。
その他は2009年再訪時に撮影しました。
住所 新潟県小千谷市平成2-3-35
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慈眼寺 |
慈眼寺 案内 |
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岩村道世の詩 |
岩村道世の詩 案内 |
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会見の間 |
会見の間 |
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会見の間 |
会見の間 |
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西軍が分捕った大鍋 |
西軍利用の弾薬輸送箱 |
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西軍の軍票 |
奇兵隊利用のそろばん |
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砲弾 |
河井継之助 両親宛私信 |
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慈眼寺 |
会見記念碑 |
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