岩倉具視幽棲旧宅
岩倉具視が文久2年(1862)から5年間蟄居していた地。
この地で諸藩士や公家と連絡を取りつつ倒幕活動を進めていった。
岩倉具視・・・公家、政治家。
堀河康親の二男として生まれ、天保9年(1838年)岩倉具慶の養子となる。天保10年(1839年)より朝廷へ出仕。
安政5年(1858年)八十八卿列参事件に名を連ねる。以降、和宮降嫁など政治活動を行うが親幕派と疑われ文久2年(1862年)8月20日に蟄居及び辞官、出家処分となる。
慶応3年(1867年)11月に許されるまで岩倉村で蟄居生活を送るが、その間も朝廷内の同志や各藩の志士達と意見を交わすなど活動を行い公武合体論から討幕論へと変わっていく。
赦免後、徳川家の辞官納地、新政府の人事案などをまとめ新政府の議定に就任。
明治となってからは新政府首脳部の一員として明治維新の改革を進め廃藩置県や岩倉使節団、征韓論、士族の反乱などほぼ全ての案件や事件を処理する。
文政8年(1825年)10月26日誕生。明治16年7月20日死去。
住所 京都府京都市左京区岩倉上蔵町100
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岩倉具視幽棲旧宅 |
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岩倉具視幽棲旧宅(2022年) |
岩倉具視幽棲旧宅(2022年) |
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岩倉具視幽棲旧宅 案内(2022年) |
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