板垣退助遭難の地
明治15年4月6日午後一時、時の自由党総理 板垣退助が仲教院にて演説を行う参会者百余名、
夕刻板垣総理すべてを終え玄関から数歩出るや「国賊」と叫んで相原尚褧が総理の胸を刺す。総理「板垣死すとも自由は死せず」と有名な言葉を残したのである。即ち板垣総理遭難の地である。
【現地案内板より】
板垣退助・・・土佐藩士。政治家。自由民権運動家。
土佐勤王党には13番目に名を連ね、大政奉還前後の土佐藩で尊皇討幕の急先鋒として活動。慶応4年(1868年)戊辰戦争では東山道先鋒総督府参謀として軍事行動を主導した。
維新後は新政府で参与・参議を務め、兵制改革や地方行政制度の整備に関わった。
明治6年(1873年)征韓論政変を契機に下野し、自由民権運動の中心人物として国会開設・憲法制定を求める全国的運動を指導した。
明治15年(1882年)4月6日に岐阜で暗殺未遂を受けながらも民権思想を貫き、自由党総理として政党政治の基盤を築いた。
嘉永7年(1854年)5月21日誕生。大正8年(1919年)7月16日死去。
住所 岐阜県岐阜市千畳敷下257周辺(岐阜公園内)
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板垣退助遭難の地 |
板垣退助 銅像 |
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| 板垣退助遭難の地 |
板垣退助遭難の地 案内 |
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