一本杉の仇討跡

この地は中山道界隈で「一本杉の仇討ち」として語り継がれた事件のあった場所です。
この事件は万延元年(1860年)下総国津の宮の沖合の船中で水戸藩藩士宮本左一朗と讃岐丸亀藩の浪人である河西祐之助が
口論のすえ斬り合いとなり宮本左一朗が命を落とした事に端を発します。
川西は、この斬り合いで負傷している所を同じ年に起こった大老井伊直弼が桜田門外で襲撃された事件の逃亡者と疑われ吟味を受けました。
そのため居所が宮本左一朗の息子である宮本鹿太郎の知る所となりました。
鹿太郎は4年後の文久4年1月23日(1864年3月1日)に西野里之進、西野孝太郎、武藤道之助の3人の後見人と共に仏門に入ろうと
不動岡総願寺から江戸に向う河西を針ヶ谷村の一本杉で待ち伏せ、みごと父の仇を討ちました。
その後、一行は針ヶ谷村名主の弥市方へ引き取られ1月27日浦和宿にて幕府の取り調べが行われた後、小石川の水戸藩邸へ引渡されました。
事件は幕末最後の仇討として刷り物、はやり歌などで中山道界隈に広まり語り継がれていきました。
かつて一本杉は樹高約18m、周囲約3mといわれ松並木の中で一際ひいでた大樹でした。
また河西祐之助は観音寺(廃寺)に葬られましたが、現在は北浦和にある廓信寺で供養されています。
【現地案内板より】

住所 埼玉県さいたま市浦和区針ヶ谷3丁目2−10
地図
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