飯沼慾斎 解剖の地

文政11年(1828年)12月26・27日に飯沼慾斎が大垣藩の許可を得て門人浅野恒進と共に美濃で初めて刑死体解剖を行った今村墓地。

飯沼慾斎・・・本草家。伊勢亀山の西村安守の次男。母方の親戚で大垣藩内で町医者をしていた飯沼長顕のもとで儒学、医学を習い、
        京都で福井丹波守に学んだ後に飯沼長顕の娘と結婚して飯沼長顕の跡を継いだ。28歳の時に江戸で宇田川玄真に蘭学を学ぶ。
        天保3年(1832年)に義弟に家業を譲って隠居し、大垣郊外に平林荘を築いて30年ほど本草学の研究に専念する。
        リンネの分類法を用いた日本で最初の体系的な植物図鑑「草木図説」を安政3年(1856年)から文久2年(1862年)にかけて出版。
        「草木図説」は幕府の目に留まり蕃書調所に出役要請を受けたが老齢の故をもって辞退。人体解剖、種痘、写真の研究などにも取り組んだ。
        天明2年(1782年)6月10日誕生。慶応元年(1865年)閏5月5日死去。

住所 岐阜県大垣市本今町1066
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飯沼慾斎解剖の地 碑 飯沼慾斎解剖の地 碑裏面
飯沼慾斎 解剖の地