本成寺

河口信順・・・古河藩医。
通称は祐卿。河口信且の子として生まれ、祖父の河口信任から蘭学を学ぶ。古河藩校盁科堂で学び、後に杉田玄白の天真楼塾に入門。
古河藩の洋学発展に尽力する。天保10年(1839年)蛮社の獄では高野長英と交流があった為に一時的に御側医格を避けられた。
嘉永3年(1850年)領民の不安を取り除くために古河藩家老小杉監物の子に種痘を接種。安政2年(1855年)啓発活動により領民に種痘を接種する事に成功する。
寛政5年(1793年)12月誕生。明治2年(1869年)3月22日死去。

河口信任・・・古河藩医。
通称は宏斎。肥前国唐津で生まれ宝暦9年(1759年)長崎で栗崎道意に入門して西洋医術の栗崎南蛮外科を修める。
宝暦12年(1762年)唐津藩主 土井利里が国替で古河藩主となり河口信任も古河へ移る。
明和6年(1769年)土井利里が京都所司代になった時に随行し、京都で荻野元凱に入門し解剖学を学ぶ。
明和7年(1770年)荻野元凱と門下生立ち合いで刑死体の解剖を執刀し、明和9年(1772年)日本最初の解剖の子細をまとめた「解屍編」を出版する。
安永6年(1777年)京都所司代の任を終えた土井利里に従い古河へ戻り、藩医として勤めながら門下生に西洋医学を教授する。
元文元年(1736年)5月9日誕生。文化8年(1811年)4月26日死去。

小出重固・・・地理学者。
小出重固は老中となった古河藩主土井利厚のもとで公用人を勤めた武士であり、また清水浜臣門下の国学者・歌人でもあって、松斎または翠庵と号した。
のち故あって、古河に隠退を命じられてからは古河藩内を隈なく踏査し、寺社の縁起や古文書・説話などを収集して、古河藩領の地誌「古河志」 (正・続編) を著した。
嘉永5年(1852年)正月81歳 (数え年)で没した。墓石に厳相院翠庵日量居士とある。
【現地案内版より】

住所 茨城県古河市横山町3丁目10−43
地図
河口信順 河口信順 右面
河口信順 裏面 河口信順 左面
河口信任 河口信任 右面
河口信任 裏面 河口信任 左面
河口信任 案内 河口家墓所
小出重固 小出家墓所
小出重固 案内 本成寺