辺田学館跡
江戸時代には、このあたりは辺田郷と呼ばれていました。辺田郷には慶長2年(1597年)の慶長の役の際に島津義弘(第17代当主)に従って朝鮮の役に出陣した郷士の子孫がが多く住んでおり、早くから武芸や学問の盛んな所でした。
ここに武芸の稽古場である辺田稽古所が作られましたが、慶応元年(1865年)辺田学館と改め武芸だけでなく、徳育の場としました。
この頃、教育に当たったのが川端半平清真翁です。
その後、辺田学舎と呼ぶようになりましたが、ここに学んだ人々の多くは薩英戦争、戊辰戦争、西南戦争などで活躍し辺田郷の名を高めました。
川畑半平翁は身分に関係なく教育をしました。明治9年(1876年)辺田学館は辺田学校と改称されました。
明治20年(1887年)辺田学館、白山小学、黒丸小学が合併して今の中山小学校ができました。
【現地案内板より】
住所 鹿児島県鹿児島市中山2丁目29−29
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川畑半平頌徳碑 |
従軍者紀念碑 |
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辺田学館跡 |
辺田学館跡 案内 |
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