農兵隊の鳩原水害記念碑
幕末の頃、内憂外患の中で不慮の事態に備え各藩は警戒を厳しくしていたが、敦賀郡の農兵隊も藩命を受け要所を固めていた。
中でも鳩原は北陸街道の重要な分岐点であり、屯所が設けられていて、昼夜を分かたず警戒巡視を怠らなかった。
慶応2年(1866年)8月7日、2日前からの大雨で激しい暴風雨に見舞われ、河川が増水し、突然に屯所の裏山が崩れて来た。
関口恭孝隊長は、避難命令を出したが、一瞬遅く、山津波は屯所を押し潰して隊長以下17名の方々が犠牲となったのである。
天下国家の為に任務に服していた多数の有為の方々が、殉死したのは誠に痛恨の極みである。
この記念碑の移設に際し、協力いただいた方々と共に謹んで追悼の誠を捧げたい。
関口恭孝は小浜藩士で当時41歳。長男の平一郎は明治32年敦賀町長に着任。
碑文を起草した唐川徹は広瀬談窓の塾に学んだ漢学者、神楽町長賢寺の住職で元華族学校(学習院)の教授。
書を担当した河端彦造は氣比社の神宮。就将小学校創設時の習字教員で、小学准二等教授。
【現地案内板より】
住所 福井県敦賀市鳩原2−3 周辺
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農兵隊の鳩原水害記念碑 |
農兵隊の鳩原水害記念碑 裏面 |
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農兵隊の鳩原水害記念碑 案内 |
農兵隊の鳩原水害記念碑 |
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