大門口砲台跡

大門口砲台は島津家28代当主島津斉彬が嘉永6年(1853年)に沿岸防備のために築いた砲台です。
甲突川河口部右岸に築かれた天保山砲台とともに、鹿児島城下南方を守る防衛拠点となっていました。
文久3年(1863年)の薩英戦争時には8門の大砲が配備されており、イギリス艦隊と激しい砲撃戦を繰り広げました。
最新鋭のアームストロング砲を装備したイギリス艦隊は当初、嵐のため各艦動揺し十分な威力を発揮できませんでしたが、それでも薩摩藩の砲台に確実に損害を与えました。
一方、薩摩藩も旧式砲ながら善戦しイギリス艦隊に多大な損害を与えました。2日間にわたる戦闘で薩摩藩は戦死5名、負傷14名を出し(異説あり)砲台は破壊され、集成館の工場群や城下町の一部が焼失しました。
【現地案内板より】

住所 鹿児島県鹿児島市南林寺町27−16
    地図
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