台場公園(薩英戦争砲台跡)
文久2年(1862年)8月21日島津久光の一行は薩摩(鹿児島)に帰る途中、武蔵生麦村(現横浜市)で行列を乱した英国人リチャードソンを惨殺し二人に傷を負わせた。
この事が原因となって薩英戦争が始まった。文久3年2月薩藩は英艦の錦江湾来攻を察知して沿岸の防備を固めたが、
この時、本町の根占港津柱神社裏と現在地。そして上ノ山の三か所に五番陣(小根占、大根占、佐多、大姶良、鹿屋)の郷士が主になって台場を構築した。
今この砲台の跡を土地の人々は「台場跡」と呼んでいるが台場の高さ3メートル、幅4メートルのこの御影石の石垣は延長60メートルにも達し中央に砲身を構えた凹部が2つ残っている。
近くには煙硝倉もあった。薩英戦争の際、発射する機会は無かったが錦江湾沿岸に数十の台場が構築されたなかで当時の台場として原型をはっきりと留めているのはこの台場だけという貴重な史跡である。
【現地案内板より】
住所 鹿児島県肝属郡南大隅町根占辺田614−3
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台場跡 |
台場跡 |
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錦江湾 |
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島津斉彬使用の手水鉢 |
島津斉彬使用の手水鉢 案内 |
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台場公園案内図 |
台場跡 案内 |
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