首塚(忠勇戦死之墓)

元治元年(1864年)尊王攘夷派(天狗党)と佐幕派(諸生党)との戦闘は茨城県下に広がり、尊王攘夷派は最後の拠点として糸藩随一の商業都市那珂湊に結集した。
海と陸との両方から包囲された尊王攘夷派は必死の抵抗をし、那珂湊での戦闘は熾烈を極め、70数日に及ぶ長期戦になった。
特に10月10日の戦闘は激烈なものとなり、市内の至る所に飛び火して繰り広げられ、特に部田野原での戦闘はすさまじく、尊王攘夷派は甚大な損害を被った。
10月23日には尊王攘夷派(天狗党)の多くは投降しましたが、残りは包囲を破って京都を目指し、福井県敦賀の松原まで逃げ延びたが悲惨な最期を遂げている。
この10月10日の熾烈な部田野原の戦闘での戦死者の首級を手厚く葬ったのが首塚で、慶応2年(1866年)十三奉行の人々がこの地に供養の為に建てた石碑が忠勇戦死之墓である。
【現地案内版より】

住所 茨城県ひたちなか市鶴代12245−1
地図
首塚(忠勇戦死之墓) 天狗党員墓
天狗党員墓 右面 天狗党員墓 右面
首塚(忠勇戦死之墓) 首塚(忠勇戦死之墓) 案内