万松寺跡

水野忠邦(1794~1851年)は天保12年(1841年)11代将軍徳川家斉の死後、
老中首座となり江戸時代の三大革命の一つ「天保の改革」を主導した人物として知られています。
主な改革として、それまで商品の流通を独占していた株仲間を解散させ自由競争による物価の引き下げを図り、
また上知令により江戸、大阪の十里四方を幕府直轄領にしようとしました。さらに贅沢品や華美な衣服を禁じる倹約令を出して生活や風俗を厳しく統制しました。
しかし改革の目的が幕府の財政難の解消と権力の強化であった為、民衆や大名の反発を招き、わずか2年余りで失敗しました。
忠邦は唐津藩主(佐賀県)・浜松藩主(静岡県)でしたが、文化12年(1815年)と天保13年(1842年)に菩提寺である万松寺を訪れています。
また墓の側面には忠邦の辞世の和歌が刻まれています。
くみてこそ むかしもしのべ ゆく川の かえらぬ水に うかぶ月かげ
【現地案内板より】

住所 茨城県結城市山川新宿1651
地図
水野忠邦 水野忠邦 右面
水野忠邦 裏面 水野忠邦
水野忠邦 案内 水野家の墓 案内