有馬新七居宅跡

有馬新七が石谷奉行として町田久成から招かれ、万延元年(1860年)2月から文久元年(1861年)まで住んでいた地。

有馬新七・・・薩摩藩士。伊集院郷士。
坂本四郎兵衛の子として誕生。父が鹿児島城下士 有馬家を相続し有馬性となる。
天保14年(1843年)江戸に出て山口管山に儒学を学ぶ。安政4年(1857年)薩摩藩江戸藩邸学問所教授に就任。
安政6年(1859年)11月5日脱藩を計画(突出)するも島津忠義に阻止される。万延元年(1860年)石谷領主 町田久成の要請により石谷奉行となり青少年の教育にあたる。
文久2年(1862年)島津久光に従い上京。佐幕派の関白 九条尚忠、京都所司代 酒井忠義らの襲撃を計画するも島津久光に計画が露呈。
文久2年(1862年)4月23日、京都寺田屋で薩摩藩士同士の戦いとなり斬死した(寺田屋事件)。
文政8年(1825年)11月4日誕生。文久2年(1862年)4月23日寺田屋事件で斬死。

住所 鹿児島県鹿児島市石谷町3027
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