会沢正志斎の屋敷跡
会沢正志斎・・・水戸藩士。
寛政3年(1791年)藤田幽谷の私塾に入門。寛政11年(1799年)彰考館で大日本史の編纂に携わる。享和3年(1803年)江戸彰考館勤務となる。
文政4年(1821年)水戸藩7代藩主 徳川治紀の諸子の教育係となり徳川斉昭等を教育する。文政9年(1826年)彰考館総裁代役となる。
文政12年(1829年)藩主後継問題が起こり徳川斉昭を擁立する為に江戸へ行き奔走するが、無断で江戸へ出た罪で30日間に逼塞となる。
郡奉行、通事、彰考館総裁、学校造営掛、初代弘道館教授頭取を勤め、弘化2年(1845年)藩主 徳川斉昭が幕府から隠居謹慎を命じられ、会沢正志斎も蟄居を命じられる。
嘉永2年(1849年)徳川斉昭と共に許され弘道館教授に再任する。安政5年(1858年)戊午の密勅問題では朝廷への返納を主張する。
天明2年(1782年)5月25日誕生。文久3年(1863年)7月14日死去。
住所 茨城県水戸市南町3丁目4−10
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会沢正志斎像 |
会沢正志斎像 |
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会沢正志斎 案内 |
会沢正志斎の屋敷跡 案内 |
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会沢正志斎の屋敷跡 |
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