若き薩摩の群像

文久3年(1863年)の薩英戦争を機に西洋技術修得の機運が高まり、元治2年(1865年)3月22日に串木野羽島(鹿児島県いちき串木野市)から薩摩藩遣英使節団を派遣。
使節団は新納久修、五代友厚、松木弘安(寺島宗則)の外交使節団3名と15名の留学生(薩摩藩第一次英国留学生、薩摩スチューデント)と通訳1名の19人で、「若き薩摩の群像」には17名の像が建てられている。

新納久修・・・留学生の団長格。イギリス国内やヨーロッパ大陸を視察し、紡績機などの買い付けにあたる。留学の翌年3月帰国のち家老となる。
町田久成・・・留学生の学頭として指導監督にあたる。帰国後は博物館の創立者、元老院議員となる。
松木弘安(寺島宗則)・・・幕府の遺殴使節の一員として2年間ロンドンに滞在した経験を生かし留学生の教育にあたる。かたわら、また、イギリス政府を相手に外交活動を行い、イギリスの対日政策を大きく変えさせ幕末の倒幕運動に大きな影響を与えた。のち寺島姓となる。
五代友厚・・・留学生派遣を提唱した中心人物。イギリス国内やヨーロッパ大陸を視察。紡績機械の買い付けにあたる。留学の翌年3月帰国、明治維新後の日本経済近代化に指導的な役割を果たした。初代大阪商法会議所会頭となる。
名越時成・・・陸軍学術を学ぶ。留学の翌年8月下旬帰国。
吉田清成・・・海軍測量術を学ぶ。慶応3年(1867年)7月渡米。ラトガース・カレッジで政治経済学を学ぶ。明治3年冬帰国、新政府の財政問題と条約改正に取り組む。駐米公使、農商務次官をつとめる。
中村博愛・・・科学を学ぶ。留学の翌年1月渡仏、3年間フランスで留学生活したのち明治元年(1868年)帰国。藩開成所のフランス語教授。のち公使(オランダ・ポルトガル・デンマーク)として外交官になる。
市来和彦・・・海軍測量術を学ぶ。慶応3年(1867年)7月渡米、アナポリス海軍兵学校を卒業、明治6年(1873年)11月帰国。海軍兵学校長として近代日本海軍の人材育成に尽くした。
森有礼・・・海軍測量術を学ぶ。慶応3年(1867年)7月渡米、翌年の明治元年(1868年)6月帰国。のち我が国初の駐米大使となる。駐英公使を経たのち、教育制度の確立と近代化に大きな業績を残す。初代文部大臣。
村橋直衛(久成)・・・ロンドン大学では陸軍学術を学ぶ。留学の翌年2月帰国、のち征長戦争函館役に出征。北海道の洋式農業の技術導入に力を尽した。
畠山義成・・・陸軍学術を学ぶ。慶応3年(1867年)7月渡米。ラトガース・カレッジで法律・政治などの社会科学を学ぶ。明治4年冬帰国、のち我が国の教育制度の改革に着手、初代東京開成学校長(現在の東京大学)
鮫島尚信・・・文学を学ぶ。森、磯永と共に慶応3年(1867年)7月渡米。明治元年6月帰国、我が国最初の在外公館の初代弁務士(日本を代表する外交官)、主にフランスに駐在し特命全権公使をつとめる。
田中盛明・・・医学を学ぶ。留学の翌年1月渡仏、慶応3年(1867年)帰国。兵庫県生野鉱山局長、生野鉱山に洋式鉱山技術を取り入れるなど、日本鉱山業界の発展に尽した。
東郷愛之進・・・海軍機械術を学ぶ。留学の翌年8月帰国、慶応4年(1868年)病没。
町田実績・・・海軍測量術を学ぶ。留学の翌年8月帰国。町田久成の弟。
町田清次郎・・・幼少のため勉強の科目を決めなかった。留学の翌年8月帰国。町田久成の弟で帰国後、財部実行と改姓。
磯永彦輔(長沢鼎)・・・幼少のため勉強の科目を決めなかった。ただ一人、スコットランドの古都アバティーンへ移る。慶応3年(1867年)7月渡米、以来、生涯をアメリカで送り広大なぶどう園の経営とぶどう酒製造につとめ、ぶどう王といわれた。
高見弥一・・・海軍測量術を学ぶ。元土佐藩士で留学の翌年8月帰国。のち鹿児島で中等学校教員となり数学を教える。
堀孝之・・・一行の通訳、長崎人。新納、五代とイギリス国内やヨーロッパ大陸を視察。のち岩下方平らのパリ万博使節団にも随行。
【現地案内板より】

住所 鹿児島県鹿児島市中央町37−1 周辺
    地図
若き薩摩の群像 若き薩摩の群像
若き薩摩の群像 若き薩摩の群像 案内
若き薩摩の群像 碑の由来 若き薩摩の群像 碑の由来
町田久成 鮫島尚信
中村博愛 町田清次郎 村橋久成
畠山義成 森有礼 寺島宗則
畠山義成 長沢鼎 田中盛明
新納久修 吉田清成
五代友厚 名越時成
東郷愛之進 町田実績
市来和彦