田丸稲之衛門

田丸稲之衛門・・・水戸藩士。
山国共綿の二男として生まれ、田丸直諒の養子となる。
天保6年(1835年)馬廻組となり縄奉行、書院番組頭、水戸藩目付等を勤め文久3年(1863年)に町奉行となる。
実兄 山国共昌(兵部)の影響により尊王攘夷運動を行い、水戸藩尊皇攘夷派の重鎮となる。
元治元年(1864年)3月27日、藤田小四郎ら62名の天狗党が筑波山で挙兵すると主将として迎え入れられる。
諸生党・幕府軍と戦うが敗れ、武田耕雲斎を主将として田丸稲之衛門は副将として京都へ向って転戦していく。
幕府軍、諸藩兵と戦いながら京都に向かい西上し元治元年(1864年)12月11日に越前国新保宿で投降する。
元治2年(1865年)2月4日、敦賀の来迎寺で斬首となる。
文化2年(1805年)誕生。元治2年(1865年)2月4日死去。

住所 茨城県水戸市松本町13−34
地図
田丸稲之衛門(2012年1月) 田丸稲之衛門(2012年1月)